修理待ちの待機状態から、やっと開放されそうです

 パン捏ねミキサーのシャフトぽっきり折れ災難から本日で4日目。明日の午後にやっと修理が入ることになりました。
 心の底からほっとしました。これで、またパン作りができる…と。

 25年近くもやってきて、シャフトが折れてパン作りができなくなったのも初めてですし、実は初めて自分が心底、製菓製パンの作業が好きだったことも気づきました。作っていないと自分の何かが喪失されている。心身の一部になってしまっていたようです。

 普段は目や鼻や手や足があるのがあたりまえで、そんなことには喜びも感謝も感じないことでしょう。でも、もし、あって当たり前のものが無くなったら…。それはそれは、けたたましいまでのショックと喪失感と絶望感と不自由を味わうことでしょう。失ってから、やっと、はっと気づけば、大切だったもの、大好きだったものだった。そんなことに、あるうちは気づいていないものなんですねえ。
 私はこの間、自分の右腕が無くなってしまったような喪失感と絶望とショックに見舞われていました。たかがパン作りが自由に作れなくなったというだけのことなのですが、四半世紀もの間、仕事や生活の身の一部になっていた私にとっては、たかがそれだけのことでも重大な事件でした。

 「好き」というのは愚かなことです。でも、すごいことだと感じました。好きという感情には理由もないし、打算もないのです。非論理的で不条件なのです。これほど不条理な感情はありません。そして、これほど愚かな動機もないです。でも、理由がないという愚かさほど、素晴らしいことも他にないですね。なんだか、愛に似ています。

 好きがこうじれば愛になり、愛なんて、好きも嫌いも期待も諦めもクソもミソもごった混ぜの一緒くたになり、愛してしまえば全てを受け入れる器になるだけなのでしょうね。器というものは空っぽでなければいけない。器の価値はその空虚さにあるわけです。おおっ、なんだか古代中国の孔子と老子の哲学説話みたいになってきたぞ!そういえば、孔子だったよな。器の本質はその空にありと説いたのは。孔子は器の大切さは器を支える底にあり…って言ったんだっけ。まあ、いいや。たかが愛工のミキサー修理の話で、哲学していちゃあかん。(ゆくゆく暇人だよなあ)。

 まあ、つまり、わたくしは、やっと自分の恋心や、それがこうじた愛心に気がついたわけなのですよ。恋は欲情という空虚ならざるものが存在するが、愛はその欲すらも存在せずに、まったくの空なのでございます。空とは存在の不条理そのものです。そして、空こそが、愛なのであ〜る。空は喰うに通じる。相似像学的見解。(しみじみ、アホだ)。

 この数日間で、私は教室を2ヵ月半ぶりに再開することを決意しました。人生の不条理を糊口の生業に昇華させるという非社会的動機もさほど悪くはないと思う昨今です。